切除


やり直しが基本効かないのは大きなリスクだ。
自分がやりたいかと言ったら、やりたくはない。
ただ憧れみたいな感情はわかる気はする。
入れてしまうと、タトゥーを除去しようとしても、
跡が完全に消えない場合がある。

そこで美容クリニックの出番だ。
高い確率で、切除できるようだ。
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別の快感


そしてそのことを逆からみれば、
この多くの者が越えられない関を横目にみながらこれを越えてみせるのは、
また別の快感を呼び込むことにつながる。

やってはいけないこと、不可能なことに挑戦するのも人間の業といえる。
皮膚の下の色をどうみるか、
刺青という人の行為をどうみるかということを煎じ詰めていくと、
そこにどのような視線を投げかけ、どのような思いをむすばせるかは、
まさに見る側の見聞しだいというところが面白くもあり、
また悲しい人間の姿だといえそうである。
そしてここで扱う刺青という対象を考える場合も、
所詮は関所の内と外、
演じる者と観る者の相互関係しだいであると覚悟するしかないのかもしれない。

 

葛藤


それにしても、見られることへの恐れ、知られることへの恐れが、
これを彫ることをためらわせ、
しりごみさせる葛藤になっていることもまたたしかなこと。

この関の手前で引き返すのも、そこで逡巡させるのも、消えないこと、
見られることへの世間体をおもんぱかるゆえであり、
そこに見えない視線を意識するからである。

人間の業


入墨とはどのようなものか書いていきたいと思う。

まず、彫師と客、2人の共通作業で形を与えられた瞬間から
視線のるつぼにたたき込まれるのが背負う宿命である。

それまでのさまざまな思惑や葛藤を離れて、
社会的な対象として見られるものへと転換する。

そして、いのちのあるあいだ、刺青があるという事実が、消えることはない。
いってみれば、そのことこそが刺青のもっとも刺青らしいところだといえる。
お刺青は、身の内に取り込んだ自分の一部調り、
二度と取り換えのきかない装いでもある。

そこのところが身にまとうものとの違いになり、
しかもそれは見られることを想定している。

みられること、他人の視線を欠落させた刺青は考えられない。
もちろん、これは見せるものにあらずというのも、
また郷人の秘密だと理屈づけてみせるのも、それは見せることの変種であり、
裏返しの意味でしかない、姫の中のたった叫人のための刺青はあっても、
誰にも見せない刺青、人の視線をまったく予想しない刺青はない。